雪城山の昔の城跡の真下に位置した新興寺は年代は明らかでないが三国時代、雪城を築く時、雪城寺という寺があったというがこれを確認することはできない。 文献上残っている記録では英祖36年(1760)に編纂された《輿地図書》の叙述が最も最初のものと考えられる。 すなわちこの本には雪城について言及しながら“今小さい庵を置いた”という記録があるので、これが 新興寺に対する最初の記録であろう。 これを証明する事実が《 輿地図書 》とほぼ同じ時期に編纂された 申景濬 (シン・ギョンジュン)(1712~1781)の< 伽藍考>にも出ている。
新興寺と雪城がある雪城山の反対側の北側の山の麓に位置した蓮華精舎は雪星面と長湖院邑との境界地域に位置している。 利川市管内の南側に位置した雪星面は本来忠清北道 陰竹郡 遠北面であった。 高麗 睿宗の時(1105 - 1122)に創建された陰竹寺の歴史はその後、全く知られりことなく単に寺の跡地だけ残っていた所に1967年大雄殿をたてて山神閣・ 寮舍棟を建設して 蓮華精舍といった。
霊源寺
円寂山南側の麓に位置した霊源寺は新羅宣徳女王7年(638)に海浩禅師が創建したが草創当時の寺は今の場所よりもやや上の方にあったという。 草創の時から日帝時代までは霊源庵だと呼ばれたが、当時水瑪瑙石で作った薬師如来座像を奉安した。 史跡期によればその後400余年が過ぎた1068年(高麗文宗22)に慧距国師が燃えてしまった 霊源庵を再建したという。 その時植えたといわれるイチョウの木が今でも生きている。
雪峯山の麓 利川市の市街地が一目で見下ろせる所に位置した英月庵は新羅文武王の時、義湘大師.625-702)が創建して北岳寺といい、山の名前も北岳と呼んだがこれを証明するに値した実証的資料がなく、事実の確認は難しい。 ところで英月庵には宝物第822号と指定された(英月庵 磨崖磨崖如来立像)は高麗中期に造成されたものと推定され、また利川市 郷土遺跡第3号に指定された石造光背および蓮花座対は統一新羅末から高麗初期のものと推定されている。 これらから見る時、英月庵は新羅末から高麗時代には 寺勢がかなり隆盛していたことが分かる。 774年(英祖50)に映月大寺朗奎が北岳寺を再建して自身の法号を取り、英月庵と寺の名前を呼び直したという。