映月庵 石造光背 および 蓮華座台
映月庵創建当時に造成されたものと見られる石造光背と蓮華座台で、その中心に安置した仏像が無くなったまま倒壊されていたものを大雄殿の前に復元したものである。 中央の仏像は1980年新しく造成して安置したものである。
支石里 支石墓
支石里村の進入路から右側に10mほど離れたあぜに位置している先史時代の 遺蹟である。 この 支石墓はその規模から見て玄室を地下に置きその上に蓋石を載せたテーブル式であり村の長老たちによると昔ここから石刃、石矢じりなどが出土したというがその行方は知られていない。一般に支石墓が青銅器時代の部族長の墓と推定されるだけに、支石里を中心とした一帯の地域が先史時代、ある程度の規模の部族集団の集落だった可能性が高い。
官庫里 五層石塔
官庫里貯水池左側の畑に倒壊され各部材がばらばらになっていたものを1978年に収集、昔の寺跡前に復元したもので、現在の元位置なのかは明らかでない。 現在の状態は塔頭部と四つの屋身が全てなくなった状態で単層基壇の上に一層の屋身が置かれ、その上に五つの屋蓋石が積まれているが、この部材は全て同一石塔のものなのかは確認されていない。材料は花崗岩であり作られた年代は高麗時代と推定される。
官庫里 立像石仏
この石仏は規模が大きな如來入像で頭は肉髮で 小さな 肉髻を持っており相好は円満である。 耳はとても大きく両肩にまで長く垂れ下がっており、首の三道ははっきりしているが図式化された感じがする。法衣は通肩で胸から衣文が縁故を描いて両膝部分から楕円形を成し足の下まで触れている。 右手は横にきれいに伸ばして下ろし左手は外に向かい腹の前の部分で曲がっているが体に対し手が大きいほうである。鼻筋と手指の部分は一部が摩滅しておりセメントで補強し背中の真ん中に10cmほどの四角の穴があいているが、頭光装飾を作って付着してあった部分であると思われる。 規格化された手法から推して、仏教彫刻の衰退期である高麗中期以後に造成された作品と推定される。
葛山里 石仏立像
この花崗岩石仏は造成当時上下に立つの部分に分かれ腰の部分で連結されるよう造られていた。しかしかなりの昔に倒破壊され首・体・腰の部位などがなくなったまま放置されていたものを1980年ごろセメント補強でげbb財の一に復元したものである。仏像は正方形台座の上に載せたが全体の高さが10m 肩幅73㎝の規模である。周囲に配置された165㎝程度の四つの石柱と仏像の前に置かれた方形石材は本来の塔身の一部分である。 全体的に胴体が頭像に比べて細長く不釣り合いあるのが特徴である。 仏像の造成年代は高麗中期と推定される。
所古里 磨崖如來坐像
馬国山ブチョバウィ(釈迦岩)と呼ばれる磨崖如來坐像から約7m下の地点に位置する花崗岩自然石の上に彫刻されている。この三尊仏は南西側を向いた舟形光背に近い平たい自然石の面に石を刻んで彫刻され全て結跏趺坐した坐像の形態である。 この石仏は新羅時代の土偶や未開種族の神像に見られる絵画的で誇張された表現が特徴である。全体的に均衡が取れておらず、一般的な仏像造成の規範から離脱し図式化されれいる。しかし素朴で茶目っ気のある表現が親近感を加えている。造られた年代はおよそ高麗中期以後と推定される。
東山里 磨崖如來坐像
東山里村南西の大德山の麓に位置する。 仏像は花崗岩自然石を削って高さ203㎝、幅79 - 91㎝、厚さ、15 - 20㎝の 左傾の長方形の板石を立て、その全面に洗練され柔軟な彫刻の腕前により如來の立像を1㎝n深さで彫刻したものである。 「新增東國與地勝覽」佛字條には「立石寺在戶法里大德山」と記録されているのを見れば、この山中に立石寺は位置していたことがわかる。 また仏像の西側に立石在峠 (イプソクジェコゲ) という地名がつけられたことから見てこれらすべてが如來像が刻まれた石、即ち立石から由来している可能性が高い。
善邑里 立像石仏
竹谷村の前の川に埋もれていたのを新興寺の住職が現位置に移したものであるという。 法衣の形態や体に何の装身具の表現のないことから推して如来像であるということが分かる。 台座の蓮花紋、衣紋の形態、均衡のとれた仏身の姿と洗練された表現手法から見て、統一新羅末~高麗初期に造成された作品と推定される。
大浦洞 石造如来立像
丹月同を過ぎ行方面の道路際に位置するこの仏像は花崗岩一石で造成された 如來の像で 畑際に南向きに直立している。 臀部が土の中に埋まっており、実際実在の高さは4mを越えるものと推定されるが、突出している現在の高さは239㎝、肩幅は96㎝である。 頭は素髪で肉髻は大きい方であり相好は円満だが両頬が若干ふっくらしていて高麗仏像の特色を表している。
霊源寺 石造薬師如来坐像
本来は現 霊源寺大雄殿 右側の薬師殿の中に安置していたものを1985年新しく蓮華台座を作り現在の位置に安置した。首の上の頭像の部分もやはり近年新しく造成したものである。 現在仏像の高さは118㎝、肩幅は71㎝、膝幅は105㎝であり、台座の高さは 94㎝である。 新しく造成した頭は素髮に肉髻が調和を成しており、相好は円満で両耳は首の上まで長く伸びている。 霊源寺の寺蹟記によれば新羅 善德女王7年(638)海浩禅師は寺を創建し水瑪湖石で藥師如來座像を造成奉安したという。 しかし表現手法から推して三国時代の仏像と見るには難しく、統一新羅末-高麗初期以上にはさかのぼらない作品であると推定される。
ドリプ里 六槐亭
朝鮮 中宗14年(1519) 己卯士禍により趙光祖(チョ・グァンジョ)を中心として至治主義と現想政治を追及した新進士類らが大きく没落、この時乱を避けて帰郷した南塘、厳用順(オム・ヨンスン)が建設したという東屋である。初めは草堂であったがその後数回にわたる再建を経て今日に至っている。 六槐亭という名前は当代の明賢である慕斉、金安国(キム・アングク)をはじめ葵亭、姜隠、渓山、呉慶、退休、イム・ネシン、斗文、 成聃齡 、南塘厳用順ら 六名の学者が集まって詩会と学問を講論しながら、友情を賛える意味で東屋の前に池を掘り、蓮を植えて各々一株ずつ全6株のケヤキを植えたということから由来した。
雪峰山 映月庵
利川の鎭山である雪峰山主峰の麓に位置する映月庵はこの地域の代表的な古刹であり朝鮮英祖36년(1760)に編纂した余地図書と1899年に出た利川郡邑誌には北岳寺としたがその後は映月庵と呼ばれてきており現在は 曹渓宗に所属している。 映月庵 重建記には今から1300年前 新羅第30代文武王の時 海東華嚴宗の 開祖である義湘祖師が創建したとなっているが、これを証明するような文献や金石文等の信憑資料がなく、その事実有無を確認することは難しい。 しかし境内には高麗中期の作品と推定される石造光背および蓮花座台、さらに石槽3層石塔などの由緒深い古刹であることを立証している。
寺の前にある一根二柱の一抱えほどもある銀杏の木は樹齢が約600年と見られるが、これは高麗末の高僧懶翁大師がこの寺に滞在した時にさしておいた杖が育ったものであるという伝説を持っており1988年7月27日、伝統寺刹に指定保存されている。
愛蓮亭
『新増東国与地勝覧に収録された任元濬(イム・ウォンジュン)の<愛蓮亭記>によれば愛蓮亭は成宗5年(1474)利川府使として赴任した 李世珤(イ・セボ)が建てたとなっている。 初めに官衙(官庁)東側にある利川 客館南側に小さい東屋があったが、彼が赴任した当時には手入れをせず傾いていた。 李世珤はこの東屋を修理して前よりもっと大きく建てたが、低くもなく高くもなく贅沢すぎないと言ったそうである。 東屋の下の方は自然湿地だったが四角形の方沼を掘り蓮の花を中央に植えたといわれる。 領議政だった申淑舟に命名を依頼し、愛蓮という名前を得た。 中宗4年(1509)頃に府使李純彦が 愛蓮亭を大きく増築した。 実録には中宗がここで養老宴を施した記録があり、粛宗と英祖、正祖が訪問した記録もある。
權鈞墓地
權鈞(クォン・ギュン) (1464-1526)は成宗から中宗の時までの官僚で、成宗実録編纂に参与し戶曹(ホジョ) 、禮曹判書(イェジョパンソ)、漢城府判尹(ハンソンブ・パンユ)を経て右議政(ウウィジョン)を務めた人物である。 こちら墓地は 權鈞の家系が祭られた場所で、 亀の形の受け台石である龜趺(クィブ)と大理石の碑身(ピシン)、竜の形の螭首(イス)から成る 神道碑(シンドピ)と墓碑、望柱石(マンジュソク)、 文人石(ムンインソク)、童子像などの石造物 は高麗から朝鮮時代までの形態が現れており特異で珍しいものとして学界のに関心を集めている。
顯忠塔
1958.3.3 最初建立:利川市安興洞402番地(堤横) (忠魂塔と命名) 1977.6.6 移転建立:利川市官庫洞山57-1番地(顕忠塔と改名) 1995.10.1:英顯碑 除幕 2001.6.5 移転建立:現位置